自分の決められた道を走り通して

April 29th, 2013

今日、使徒パウロの生き方を見ることができます。彼はなぜ偉大な生涯を送ることができたのか、それは彼の才能のゆえか、彼のおかれた環境のゆえか、今日私達は御言葉の本文を通して、彼が偉大な人生を送ることができたその秘訣を見ることができます。そしてそのような生き方を主はパウロを通して私達にチャレンジしております。

20:17パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。20:18長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。20:19すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。20:20役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。20:21神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。

教え続けてきたパウロ。様々な試練に遭いながらもここまで教え続けてきたパウロ。今の私達がこのようにあるのは、私達を支えている過去の人物や環境、状況の故にほかならない。今日、使徒パウロは、エフェソの人々に今まで使徒パウロがしてきた過去の出来事を思い起こさせようとしています。なぜ、私達は創立記念を礼拝するのでしょうか?私達が何かを記念するのは、過去の出来事を思い起こさせるためです。そしてそれを思い出し、心を新たにするためです。それは主に、悔い改めと感謝のためであると言えます。

私達は過去から何を学ぶのでしょうか?過去を通して、人々は悔い改め、感謝することができる人々は幸いな人です。将来に成功の希望があふれている人です。逆に過去から学ばない人は失敗の人生を歩むんでしまいます。

使徒パウロはエフェソの長老たちと別れようとしています。もはや二度と会う事はできない。その時に、パウロは今まで自分がしてきた事をもう一度思い起こさせるのです。

私達はどうでしょうか?

牧師先生のテロ事件や様々な出来事。

2番目に、使徒パウロの偉大さは、困難と試練に対して正面から立ち向かう人だった事です。

20:22そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。20:23ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。

そのような様々な出来事を踏まえて、それでは今、私がどうするかが大切なのです。なぜ使徒パウロは苦難に対して正面から立ち向かっていったのか?それは使徒パウロが初めてではありません。これは何よりも主イエス・キリストが我々に対して大きな模範を示されました。イエス様こそ、苦難に対して正面から向かっていくお方でした。なぜなら、それはカルバリの十字架の死に至るまで示されたからです。

フィリピ2:6~8

2:6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

そこで私達はどうすべきか?イエス・キリストを模範として、使徒パウロを模範として、我々は困難と試練に正面から立ち向かう者になりましょう。主はそのような人に必ず伴って下さいます。

イザヤ41:10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。41:11見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。

苦難に対してどのような姿勢で臨みますか?今、今日どうするかがその決断が大切です。苦難を避ける人生ではなく、苦難に立ち向かう人生を送る私達になりましょう。

 

三番目に、使徒パウロの人生は、その使命感によって導かれました。

20:24しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

人生における偉大な使命を見出した人は幸いな人です。

使徒パウロにとって福音を伝えることが彼の使命でありました。皆さん、使命とは何でしょうか?漢字では「命を使う」と書くのであります。使命とは、これができたら死んでも良い。しかし、これが成し遂げられるまでは死ねないし、死なない。というものが使命です。もっと簡単に言うと人生の目的です。多くの人々はこれが分からなくて悩んでいます。

日本の教育の問題、日本だけではないが。それは命よりも大切なものを教えることができない。それを教えると宗教教育になってしまうからです。だからとにかく生きなさいと言う。いじめられても、人生が辛くても、命が一番大切だから。とにかく生きなさいと言う。だけど、何のために?生きればよいのか分からないのです。4つのPのたとえ話にあるように、とにかく学校のグラウンドを全力で走りなさい。いつまでも、何周でも死ぬまで走りなさい。しかし、目的は分からない。死んだらどうなるのかも分からない。

とにかく、命が与えられたから、生きている限りは全力で生きなさい。こうしか言えないのは、世の人々が自分の命よりも大切なことを知らないからです。

星野富広さんの話。命が一番大切だと思っていた頃は、生きるのが辛かった。しかし、命よりももっと大切なものを見つけたとき、生きるのが楽になった。

わたしたちはただ生きることではなく、何のために命を使うかを考えなければなりません。しかし、聖書は言っています。主が与えてくださる使命は、命よりも大切なものです。

ある人は20万円お金を出してパソコンを買います。なぜでしょうか?20万円よりもパソコンの方が価値があると考えているからです。ある人は有名な絵画を買うために何億円も出す人がいます。私達には理解できないかもしれません。しかし、その人は何億円のお金よりもその絵画の方が価値があると考えるから、惜しまずにお金を出せるのです。私たちは何のためにお金を惜しまないのでしょうか?お金よりも価値があるもののためであります。それでは私たちは何のために自分の命を惜しまないのでしょうか?それは自分の命よりも価値があるものであります。皆さんは自分の命よりも価値あるものを知っていますか?世の中の人々はそれを知りません。学校の教育も、親も、命よりも価値あるものを教えることができないのです。世の中では命が世界で一番大事なものだということになっています。それでは何のために命を惜しまずに生きられるのでしょうか?世の中はただ生きることが全てです。長生きすれば幸せでしょうか?違います。私達は一度しかない自分の命を何のために使うのか?その使命が私達の人生に価値を与えるのです。3億円払うのに惜しまない絵画があるから、3億円に価値があるように、私達の人生も命を惜しまず捧げられる使命があるから、自分の命に大きな価値があるのです。人間の命は使命によって輝くのです。そして、クリスチャンは世の中が知らない、自分の命よりも大切な価値あるものを知っているのです。それはイエス・キリストであります。そしてキリストが私達に与える使命であります。神様の国と神様の義を求めることです。地の果てに至るまで命の福音を述べ伝えることです。その使命に向かって生きるとき、私たちの人生は大きく光り輝くのであります。使命とは命よりも価値あるものでなければなりません。主だけがそれを私達に与えることができます。主がそれぞれに与えてくださった使命があります。主が素晴らしい神様の働きの為に私たちの命を使ってくださいます。そして、その使命の為に私たちは人生を全うするものになりましょう。

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イースター

April 25th, 2013

イースターは、クリスマスと並んで、キリスト教の代表的なお祝いと言う事ができます。クリスマスがキリストの誕生を祝うのに対し、イースターはキリストの復活を祝うものです。クリスマスは毎年12月25日であるのに対して、イースターは毎年その日付が変わります。それは、基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われる為に、毎年、その日付は変わるのです。

皆さんは、復活を信じますか?復活とは何ですか?それは、死んだ人間が再び命を得る事です。皆さんの周りに復活した人いますか?自分のお爺さんでも、親戚でもいいんです。恐らく誰も見たことがないでしょう。時々こういう事件はあります。ある人が交通事故に遭いました。そして、心臓が停止してしまいました。しかし、周りにいた人が必死に心臓マッサージをし、電気ショックを与えたことで、その人は心臓が停止して約10分後に再び心臓が動き出した。これは『蘇生』というんです。科学的に生き返る可能性がある状態で、電気ショックやマッサージで刺激を与えて再び心臓を動かせることです。

しかし、復活は違います。イエス・キリストは十字架の上で完全に死なれました。そして、三日も経っていました。キリストの体は、墓場に埋葬される為に、亜麻布によってぐるぐる巻きにされ、ミイラにするのと同じような薬品を体中に塗られて布で巻かれ、樹脂によって固められました。普通に息を吸う事もできない状況です。つまり、完全に死んだ状態から、新しい命をもって三日の後によみがえったというのです。

私は、物理学を勉強していました。実験ではなく、理論物理学を学んでいました。何よりも、論理的で、科学的に考える事を第一にしていた者です。だから、初めて聖書のこの復活の記事を読んだとき、20世紀にもなってこのような馬鹿げた話を信じる人がいるのかと思っていました。私は、科学を勉強するものとして、何事も最初は疑ってかかります。科学はどのようにして発展したのでしょうか。全てが当たり前だと思わないで、一つ一つ、疑う心で調査し、検証していく中で、確かな事実を発見して来たのです。だからこそ、私は到底復活という出来事を受け入れられませんでした。しかし、私は聖書やその他の様々な文献を調べながら、本当にキリストの復活と言う出来事が歴史的にあったのか、なかったのかを調べるようになりました。そして、確かに科学的には、医学的にはありえないと思われていた復活の記事が、調べれば調べるほど、歴史的な真実であったと認めざるをえなくなったんです。私は結局キリストの復活を認めました。キリストを信じたというより、復活を客観的に認めたんです。認めざるをえなくなったんです。

それから、死んだ人間を生き返らせることのできる全知全能なる神について考えるようになりました。キリストは復活した。キリストを復活させた、神がいる。このお方はどんな方か?と言う風に。そして、私は神の前で自分が罪人である事を悟り、洗礼を受けるように導かれたんです。

今日この場に来ている多くの兄弟姉妹の皆さんがいると思います。私が言いたいのは、聖書は歴史的な事実だという事です。それはつまり復活の事実もそうです。多くの人は、馬鹿馬鹿しいといいます。現代人が信じられるわけがないといいます。しかし、頭から最初から決めつけるのではなく、心を謙遜にしてこのキリストの復活と言う出来事を真剣に考えて欲しいと思います。なぜなら、キリスト教はこのイエスの死と復活の出来事に命をかけているからです。疑い深い私でさえ、調べていく中でキリストの復活を事実と信じることができたんです。

まず、私が言いたいのは、復活は作り話でも神話でもなく、歴史的な事実だという事です。

聖書以外の歴史的な文献には様々なイエスと当時のクリスチャンに対する記録があります。

(ポリニウス)

 

2番目に、イエス・キリストの復活は私たちにとってどんな意味があるのかということです。

復活は、死を乗り越えることです。人間が直面する最も難しい問題は死の問題です。イエス様はその死の問題を乗り越えることができるお方だということを証明しました。

これは、つまり人間のもっているあらゆる困難を乗り越えるお方であることをイエス様が証明したことです。

イエス様によるならば、私たちは様々な困難や試練に対して信仰を持って立ち向かうことができます。使徒パウロは言いました。私を強めてくださる方のおかげで、私にはすべてが可能です。

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初子の奉献と除酵祭

April 16th, 2013

今日の本文は初子の奉献と除酵祭の場面であります。

出エジプト 13:2 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」

この本文が、私達クリスチャンにとってのアイデンティティーの根幹をなすものである事を知らなければなりません。まず、『聖別』とは一体何でしょうか?

聖別とは、礼拝で使用する器具などを聖なるものとして、他の被造物と別のものとすることである。これが聖別の意味であります。聖別されたものは、聖別解除がなされるまで宗教上用いる聖なるものとされ、他の目的に使用することは出来ないとされている。

つまり、聖別とは、神様の特別な目的の為に使われる理由で他の物とは別に取り扱われることであります。そして、聖別された物は神様以外の目的に使用することはできないのです。神様はイスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、主に捧げて主のものとするよう命じられました。ここで誤解しやすい事があります。聖別して主に捧げることを惜しんでしまう心が人間にはあるということです。せっかくの初子が自分のものになるのではなく、聖別されて主のものになってしまうとは、本当に勿体ない事ではないのか…これが多くの人々の意見でしょう。しかし、そうではありません。聖別は犠牲ではなく祝福であります。子孫代々に至るまでの祝福であります。なぜなら、聖別された初子は、もはやこの世の楽しみの目的ではなく、神様に自分の人生と命を捧げられる祝福だからであります。そしてもはや聖別された初子は世の為に生きるのではなく、主なる神様の為に生きるのであります。

私達の人生はどうでしょうか?クリスチャンも皆聖別された存在であります。だからこそ、神様がご自身の計画の為に私達を世の中から区別したのであります。クリスチャンは初子の意識を持つ必要があります。自分は神様の特別な目的のために世の中から区別されている、という霊的なプライドです。霊的な自信感です。ここで神様が私達をどれ位愛しておられ、その愛故に私達と交わりたい、世の中から区別して扱いたい、そのように神様は思われるのです。

私達が捧げるのは何故でしょうか?「捧げる」ことは所有権の移転を意味します。つまり、初子は私の所有ではなく、神様の所有である、ということであります。初子は初めて生まれた子供であります。初子を頂くまでに、様々な苦労があるでしょう。そして念願の初子が生まれた時、それはどれほど可愛く、いとおしいものでしょうか?そこには新鮮な感動と喜びが常にあるのであります。人間で言うならば、初子とはいわゆる長男であります。この中で長男や長女はいるでしょうか?私は長男です。親に聞いてみると、やはり長男に対する思いは特別だそうです。親は当然今まで子育てをしたことがない。全ては初めての経験だからです。その分、長男長女に対する期待、愛着は一層のものになります。アブラハムにとってのイサクもそのような存在でありました。しかも愛する独り子であるイサクです。目にいれても痛くはない、そのような存在であります。しかし、主は言われます。あなたの愛する独り子イサクを捧げなさい。また今日の本文でも言われます。初子は主のものである。聖別して捧げなさい。これは何でしょうか?全てのものは主のものであります。実は私達のものは一つもないのです。そのような信仰がありますか?主は初子の捧げ物を通して、私達の信仰の本質を問おうとしております。

出エジプト 13:12 初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。13:13 ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。

贖いとは何でしょうか?それは主の所有となることであります。買い戻されることです。私達はイエス・キリストの十字架の血潮により贖われました。信じますか?だからこそ、私達は主のものです。主に捧げられたものです。私達は聖別された存在であるということ、心に留めましょう。聖別とは、礼拝で使用する器具などを聖なるものとして、他の被造物と別のものとすることである。これが聖別の意味であります。聖別されたものは、聖別解除がなされるまで宗教上用いる聖なるものとされ、他の目的に使用することは出来ないとされている。

私達自身はどうするべきでしょうか?私達も主に捧げられたものとして、自らを聖く保つことです。

ローマ 6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

創世 4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

 

出エジプト 13:15 ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』

自分の手に握ってはならない。最後まで自分の手に握っても何もないのである。主に委ねれば、主に捧げれば、主は用いてくださる。イエス様は独り後として捧げられた。

 

2番目は除酵祭についての記述であります。

出エジプト 13:3 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。

出エジプト 13:6 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。 13:7 酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。

何の為の除酵でしょうか。酵母とは、いわゆるイースト菌、パンだねを意味します。

パン種は自然界のあらゆるところに生息している。糖分を食べ、アルコールと炭酸ガスを排出する。この「発酵」という働きを利用し、酒、パン、味噌、チーズなどを作る。

パン種が入っていると、腐りやすい為に、それは堕落と悪の象徴と考えられていました。パン種は少しでも入っていると、すぐに膨らんでしまうのであります。これは罪の性質も同じです。罪が少しでも入っていると、急に膨らむのです。私達はイエス・キリストを信じて救われました。私達は日々イエス様の血潮によって清められています。私達は常に自らの心から悪しきパン種を取り除いていかなければなりません。

あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。とあります。

発酵する代表的な食べ物は何でしょうか?それは納豆です。納豆はどのようにしてできたか、知っているでしょうか?それは鎌倉時代だとも言われています。

馬の蔵にある大豆が発行して、いつのまにか納豆になっていた。発酵とは何でしょうか?形は変わっていないように思えるけれども、いつの間にか変質かしているということです。

マンネリズムに陥るならば、これは私達の信仰が発酵していることであります。

黙示録 2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。 2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。

知らない間に信仰が変質化することです。マンネリズムに陥るのはどんな状況でしょうか?納豆ができる環境を見れば分かるんです。それは生温かい環境です。熱くもなく、寒くもなく、あいまいな状況で食べ物は発酵しやすいんです。カビも生えやすいんです。むしろ夏のように暑いか、菌が生息できないような寒さか、どちらかであれば発酵はしないんです。実に私達は自分が今どのような環境にいるのかを考えてみてください。ぬるま湯の状況から脱皮しましょう。蛙とお湯の話があります。

ヨハン早稲田キリスト教会-モーニングチャペル

全ての面で恵まれますよう

April 8th, 2013

この本文は使徒ヨハネからガイオに宛てて書かれた手紙です。このガイオとはどういう人物でしょうか?新約聖書の中には何箇所かガイオという名前が出てきます。

ローマ16:23 わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ

と呼ばれる人物、また、

Ⅰコリント1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたの誰にも洗礼を授けなかったことを、神に感謝しているとパウロが言及したガイオ、また使徒言行録19章29節に出てくるマケドニア人ガイオや使徒20:4に出てくるテルベ人ガイオなどがいますが、正確にどのガイオなのかは定かではありません。ただ一つ言えるのはこの手紙で言及されているガイオと言う人物がいかに模範的な信仰者であり、またヨハネから、人々から証しされる評判の良い人物であったかということがこの手紙を読むと分かります。霊的書物をヨハン教会で朗読しましょう。今日は3つのポイントから御言葉を分かち合いたいと思います。

まず一つ目に、この手紙はガイオに対するヨハネの祈りから始まります。

1:2 愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。

このヨハネの祈りから感動を受けることがあります。ヨハネの祈りは愛する者が恵まれているようにとの、執り成しの祈りでした。ヨハネの祈りは、ガイオに対して、『愛する者よ』という言葉から始まります。彼はガイオを愛していました。勿論主イエスを愛していました。ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれます。ヨハネはヨハネの福音書を書き記し、そして最後の21章はイエスとペテロの対話が書かれています。ヨハネは復活した後のイエス様と主を裏切ったペテロの対話の内容を知っている数少ない人物でした。イエス様はペテロに「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか?」と質問され、「わたしの羊を飼いなさい」とペテロに命じられたのでした。その光景をヨハネがどのような気持ちで聞いていたかは定かではありません。しかし、3度裏切ったペテロに対してイエス様が3度主への愛を確認し、裏切った者にまでご自分の羊を飼うように命じられるイエス様の姿を見て、驚きを感じたでしょう。私達はヨハネの祈りを見ながら、まことにヨハネは愛の使徒であり、その祈りがどれほど愛に満ちているかを見ることができます。

ヨハネのガイオに対する祈りは、ただ恵まれているようにという、霊的な祝福を求める祈りではありませんでした。全ての面で恵まれているようにということ、そして健康であるということにまでその祈りは及びました。私は早天祈り会や木曜の祈り会で魂の名前をあげて祈りながら、本当にこのヨハネのように祈れているか、心痛く思います。魂の名前を挙げて祈る時、ある時は、ただイエス様を信じるように祈っています。ある時は教会に導かれるように、またある時は信仰が成長するように祈っています。しかし、全ての面で恵まれるように祈っているかと言うと、日々の忙しさや緊急な出来事に忙殺されて、魂のすべての面に至るまで、考えも祈りも届かない自分を発見します。すべての面でとは、まさしく全ての面でです。その人の進学、就職、経済状況、家族関係、異性関係、結婚…すべての人はそれぞれ全ての面での課題をもっています。しかし、私達はその人の為に祈る時、あまりにも表面的で、抽象的で、一方的な祈りをしていたと考えさせられるのです。

人間は総合的な存在です。たとえ、毎日聖書を読んでいたとしても、その人が常に引っかかる就職の問題があったり、家族の問題があったり、異性関係の問題があったりすれば、どんなにその人が恵まれるように祈っても、空中に拳を当てるような空回りがあるでしょう。その人の全ての面が恵まれるよう祈る人は、全ての面に対する関心、つまり愛が必要です。ヨハネはガイオを真に愛していたので、全ての面が恵まれるよう祈ることもでき、関心を持つことができたのです。

私達は毎朝祈ります。しかし、その祈りを深める者になりましょう。その人の画一的な、一方的な、自分本位の祈りではなく、その人のあらゆる人生の領域にまで神の恵みが豊かに注がれ、全ての霊的に成長できますように、祈りましょう。

またもう一つ言えるのは、ヨハネの祈りが内的な祝福と外的な祝福を祈るバランス感覚があったということです。この当時の異端の代表的なものに霊知主義、グノーシス主義というものがあります。この異端思想は霊は善、肉体はすべて悪という思想がありました。だから、彼らの関心は外的なことではなく、常に霊的なことにありました。それゆえ神秘主義や、肉体を否定する禁欲主義、あるいは肉体の罪を全面的に認めてしまう放蕩な生き方を招きました。彼らの生き方は極端であり、バランス感覚がありませんでした。しかし、そのような異端思想に陥る人々がこの時代少なからずいたのです。だからこそ、ヨハネはガイオに対する祈りを、霊肉共の総合的な祝福を祈ったと言えます。

2番目にヨハネの喜びと願いは、愛する者が真理の道を歩むことであったということです。

1:3 兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。1:4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、嬉しいことはありません。

とあります。先ほど言った通りに、今の時代もこの時代も真理の道を歩むことには沢山の妨げと誘惑がありました。当時の異端思想である霊知主義により、教会が内部からかき回され、多くの人々が真理の道からそらされて、羊の群れから離れてしまうのをヨハネは見てきました。だからこそ、ヨハネはヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲにおいて常に異端との戦いについて言及しています。

月曜日に牧師先生、サモニム、また横浜教会の林ドンホ先生が異端についての講義をして下さいましたが、異端に陥りやすい人の特徴は、体系的な御言葉の知識がないこと、また救いの真理を教理的に明確に知らないことであるとおっしゃっていました。体系的な御言葉に基づかない感情的な信仰は本物と偽物を区別することができません。偽札を見分ける特殊な訓練をする人は、最初の一か月は本物のお札をずっと見続けさせられるそうです。このようにして、真理の道を歩むためには、偽物に詳しくなるのではなく、本物を熟知しなければなりません。5月11日から行われる『平信徒を目覚めさせよう』信仰集中訓練は、体系的な御言葉の知識、救いの教理を学ぶ最大の機会であります。この中で、もう10回以上聞いたという人もいるかも知れません。しかし、御言葉の真理は何度聞いても恵みがあり、味わいがあります。そして人は半年もすると大切なことを忘れてしまうものです。半年に一度ある平信徒聖書勉強を通して、初めての参加者だけでなく、何より私達が恵みを受けて、真理の道をまっすぐに歩めるよう祈ります。

また、このヨハネの告白に対して感動を受けるのは、彼が4節でガイオをも含めて『自分の子供たち』と呼んだことです。

1:4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、嬉しいことはありません。

と言いました。実際、ガイオはヨハネとは何の血縁関係もありません。しかし、彼にとってガイオは自分の肉親の子供のように愛すべきものであり、それ故に、全ての面で恵まれ、健康であるようにと祈ったのです。愛するものだからこそ、具体的な祈りがありました。私達にとって、『自分の子供たち』と呼べる人は何人位いるでしょうか?それが、その人の愛の器の大きさ、関心の器の大きさを意味するのです。クリスチャンは愛によって人々とつながり、関係を結ぶ人です。世の中の人々は違います。自分の利益になるかならないか、自分にとって関わる事が得か損かで、関係を築いたり、切ったりします。しかし、クリスチャンの損得勘定はそうではならないのです。世の中も家族を愛します。しかし、肉親の家族だから愛するのです。クリスチャンは違います。誰かを愛するならば、その人が自分の家族であり、自分の子供であります。家族だから愛するのではなく、愛するから、家族になるのです。教会は神の家族であり、神の共同体です。本来は、生まれも育ちも国籍も違う人々です。しかし、そのような人々が神の家族になれるのは、互いに愛し合うゆえです。

ヨハネ13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子である事を、皆が知るようになる。

とある通りです。

1:4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、嬉しいことはありません。

ある人は筍長の働きをしています。ある人は献身者として歩んでいます。筍長になって良かった、献身して良かったと思えるのは、ケアをしている魂が、主を信じ、霊的に成長することを見られる時でしょう。何物にも代えがたい喜びがあります。逆に真理から離れてしまうならば、これほど心痛く、辛いことはありません。だからこそ、私達はそのように人々をケアしながら、霊的な父親として、母親として成長していけると信じます。私達は主の道を歩む中で、ヨハネのように『自分の子供たち』と呼べる人々が数多くいますように、そのような大きな愛の器になりたいと心から願います。

3番目に、ガイオは、人々をもてなすことにかけて素晴らしい評判を得ていました。

1:5 愛する者よ、あなたは、兄弟達、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。

とあります。彼らは巡回伝道者であると言われます。そして、8節には

1:8 だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理の為に共に働く者となるのです。

とあります。今日でいうならば、ガイオは献身者ではなく、TMGと言う事ができるでしょう。献身者ではないが、献身者を熱心に支え、助けたということが評価されています。

聖書には、主の僕を支えた信仰の偉人について書いてあります。アブラハムを影で支えたダマスコのエリエゼルがいました。また使徒パウロの宣教を支えたプリスキラとアキラがいました。彼らの名前は聖書に刻まれ、評価されています。ガイオもそのような人物の一人でした。それゆえに、彼らは直接宣教の現場にかかわらなくても、その支えともてなし故に、『真理の為に共に働く者』と呼ばれました。

マタイ10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しいものとして受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

とあります。ガイオは主の僕達を支えた者として、主の僕と同じ報いを受ける者であります。

私達の教会にも、そのような素晴らしい兄弟姉妹がいます。

昨夜、兄弟のリーダー会で、豚肉の三段バラを食べましたが、日本部の婦人会中心で準備して下さり、感謝の心で頂きました。また、その中で、高級なカニを差し入れして下さった韓国部の執事がいました。勿論その執事は会社での働きがあり、直接日本宣教やキャンパス宣教には関われないかもしれません。しかし、そのような愛のあるサポートともてなしにより、共に日本宣教の働きを担い、日本宣教の報いを受けるべき存在であると信じます。ヨハン吉祥寺教会の宣教館をサポートしている韓国部の執事がいます。勿論吉祥寺で働いているのでも住んでいるのでもないです。しかし、主の僕の住む家を支えながら、共にその働きを担っています。このような働きが日本人部からももっと豊かに起こされますように、祈ります。

御言葉をまとめます。一つ目に、私達は魂の全ての面に至るまでの関心と愛をもって祈る者になれますように、二つ目に、真理の道を歩むために、御言葉の知識を体系的に身につけ、また私達の関心と愛をもって多くの人々が自分の子供と呼べる愛の対象になることを願います。三つ目に、ガイオのように主の僕を支える人々が私達の教会から数多く起こされますように祈ります。